西周青铜器及其铭文研究
——以新出土的宰兽簋为中心
进藤英幸 了德寺大学芸术学部
摘要:西周青铜器《宰兽簋》于1997年7月在陕西出土,其形制、纹样、铭文等方面的评述发表于《文物》(1998)。在这篇论文中,我想重新审视早期的考释,重点解释十二行一百二十九个字的铭文。
关键词:西周;宰兽;荣伯
外文文献出处:《了德寺大学研究紀要》, 2009
Ⅰ序言
如果要具体考察中国西周期艺术文化和制度等是如何转化发展的,应根据保留的古文献(《史记》《春秋左传》《诗经》)
虽然只是《书经》等部分报道,但大家都知道出土文物特别是各种青铜器,铸刻的图案和铭文(文字内容和字体、字体的变化)是最可靠的史料。在西周青铜器和铭文研究方面,从宋代以来的学者们有很多出色的业绩,但到了近现代,工艺上和美术上都有高质量的文物在中国各地不断被出土。特别值得关注的是,陕西省出土的文物来自于当时的西周期王都地区。
本文所提到的宰兽簋也是在1997年7月下旬,在陕西省扶风县段家乡大同村的农民所挖掘出来的。被收藏的周原博物馆研究员(兼馆长)罗西章在出土地区进行调查并研究了该文物,之后在1998年第8期的《文物》杂志上发表了“宰兽簋略考”。同年7月,他与日本的拓本研究家的伊藤滋氏共同出版了《周原新出金文集粹》,宰兽簋是其刊登的第48个容器,与《文物》的判定及其缩写中也有几个疑问。以下,以上述的二书的解说文为主,参考其他文献,以“关于宰兽簋的器皿形”、“关于铭文的思考”这两点为中心进行考察。
Ⅱ宰兽簋之器形(图1 ~图4)
图1-4
罗先生视察了这个铜簋的出土的现场,在大同村附近的地区发现了许多西周中、晚期特点的墓痕迹和文物,这个铜簋是1971年左右这片土地的渠路被挖掘出来的时候发现的渠底的墓中出土的,但此后,这个小洞暂时被埋,1997年7月再次出土。
簋直径为37.5厘米,口径24.5厘米,侧面长度为25.3厘米,腹部深度为13厘米。方形台座正面的长度为24.8厘米,侧面长度为25.3厘米,高度为12.5厘米,重量为14.4公斤。脖子上有一道瓶盖,小小的不高,外面有个开口的嘴(脖子)和颈颈。四角的嘴(方嘴唇),嘴唇的部分是锐角,腹部是松弛,中央的部分是鼓起,两旁有兽首形的耳朵,是圈脚。底部是方形基座,底部是平的。盖子在中央部分有筒状的把手,直径为10.5厘米,高3.3厘米。
把手的外边和口沿部分是云雷纹缘,变形的兽面纹被实施两周,中间则有突出的瓦纹。沿口和圈脚是云雷纹的近旁兽眼的交联纹,腹部有凸起的瓦片纹。耳朵部分用兽首双角呈螺旋状,其角部分比嘴略高,屈舌处托出了重环状的鳞纹,下半部分则是象鼻垂珥。
方形台座的四边形装饰,四面是像㝬簋一样的兽面纹,四面是壶门形兽面纹,而那个兽面是方形台座的四个角是鼻子。主纹高高地浮起,眼特别突出。被细致的花纹吸引住。方形台座内侧的中央部挂铃铛的链形半圆的印记还残留着。
以上的解说,罗先生在《文物》上已经讲了,但他是最后一个。这种图案和形式的簋在出土的周原西周铜器中是非常少见的。考虑青铜器的制作年代和编年史时,器皿的形状和形状会根据时代的不同发生变化和变迁。因此,青铜器的制作年代和编年史有很大的意义,这一点不容忽视。
Ⅲ宰兽簋的铭文思考释(图5 ~图8)
1铭文的配字
除了周原博物馆的收藏外,1999年7月陕西历史博物馆收藏的三器与宰兽簋,形状和纹饰都是一样的。但是三器当中的两簋没有铭文,一簋器和表盖内侧铸造了同样内容的铭文。在字体和字体、字体上多少有些不同。因此,现在可以看到三种铭文的拓本,在对铭文进行思考之前,决定预先显示三种配字的异同。周原博物馆藏的宰兽簋的盖子铭文设为A簋(图5),陕西历史博物馆藏的宰兽簋的器铭文设为B簋(图7),陕西历史博物馆藏的宰兽簋的器铭文设为C簋(图8)。以下表示三种行为和字数(表1)。
表 1
A 簋 |
B 簋 |
C 簋 |
|
1 行目 |
10 字 |
12 字 |
14 字 |
2 行目 |
10 字 |
12 字 |
14 字 |
3 行目 |
10 字 |
12 字 |
11 字 |
4 行目 |
10 字 |
12 字 |
10 字 |
5 行目 |
10 字 |
12 字 |
10 字 |
6 行目 |
11 字 |
12 字 |
10 字 |
7 行目 |
10 字 |
12 字 |
10 字 |
8 行目 |
10 字 |
13 字 |
10 字 |
9 行目 |
13 字 |
11 字 |
10 字 |
10 行目 |
12 字 |
12 字 |
10 字 |
11 行目 |
11 字 |
9 字 |
10 字 |
12 行目 |
12 字 |
- |
10 字 |
計 |
129 字( 重文 1) |
129 字( 重文 1) |
129 字( 重文 1) |
A簋的“配字”,到8行为止每行安排10个字,纵、横之间稍稍有宽裕之感。在那之后的4行中,感觉有些拘束。而C簋线质圆润而柔和,感觉温和。字体也是富有变化的作品。
B簋的配字,每行有12个字,最后一行只有9个字,在下方有空白。这与A簋C簋相比,较直线型、长方形字体较多。C簋的配字的特色是开始的两行各有14个字。和A簋一样曲线很多,将绘画数多寡的字体巧妙地混合在一起而成。
在A簋、B簋、C簋三种铭文中,其字形字体为西周中晚期的作风,已看不到初期的遗风。
2铭文的考释
①“唯六年二月初吉甲戌”
“六年”是宰兽簋制作年代相关的纪年。罗某根据器形、图案的变迁和铭文中出现的主要人物如荣伯等人的官职名,认为是西周的第九王夷王六年,但吴镇烽对此说法表示质疑,这个器型、图案已经是懿王·孝王时期流行的东西,而且引用了荣伯登场的数种铜器进行了反驳,认为宰兽簋的时代是懿王时期比较妥当3)。杜勇沈长云引用了罗氏的“司土之荣伯,宰兽之右”的句解,从与荣伯之职官的变迁相关的其他铜器展开论述,认为是共王时代的4)。
“初吉”在日期语中是指各月四分钟,从朔日(阴历月第一天)到上弦之日(阴历8、9日左右的月亮)为止。王国维的《生霸死霸考》中写道,初吉是每月1日至7、8日5)。
②王在周师彔宫
周原指的是横跨陕西省扶风县和岐山两县的周原,在所述金文中与成周(河南省洛邑)区分,也将其标记为周王都宗周。“师彔宫”是周原建造的著名宫室之一。“师彔宫”这个宫名也能理解为谏簋、师晨鼎、师俞簋以及近年从扶风县庄白一号西周坑中出土的兴盨等铜器相印证,因此周王经常在这里出刊赏赐给臣下的地方6)。
③王各大室即立(位)
古代经典中“各”字大部分都写在“格”上。“大室”是寺庙中央的房间。命令臣下在祖先的庙中举行典礼。“立”是“位置”的位之意。
④(司)土荣伯右宰兽
司土又被称为司土和司徒,在西周金文中常能看到,是王室职务最高执政大臣之一,有义务管理国家的土地和人民,管理好籍田(天子直属耕田)。司土的官职名看上去就像是周初的康侯簋,比较老式,“免簋”的铭文中就有“免命司土”,即:郑还林、吴(虞)和牧。→命管理土、田、林、牧的官职之意)和“言簋”之名(任命你为司土,官司籍田)。这些被视为掌籍田的例子,我认为司土是相当重要的职位。还有,在《国语》周语中记述的籍田之礼中,司土成了重要礼仪的执行者。在1976年周原庄白一号窖藏里出土的“十三年兴壶”的铭文中也有。“扬簋”是司徒生所做器。
“荣伯”的名字见于康鼎、卯簋、敔簋、辅师簋、师詢簋、弭伯簋、应侯见工钟、永盂、卫簋等诸器。“右”是添上一句的意思,即引导性的。作为右者的荣伯除了宰兽簋外还见于康鼎、该簋、辅师簋、弭伯簋、应侯见工钟等,辛卯簋是家臣本命者,敔簋荣伯出现在献捷(胜利归来,俘虏,战胜,在庙奉告)的场合中。荣氏家族是当时极有权势的家族。罗氏对铭文中出现的荣伯进行了以下解释:
荣伯的名字被认为早在恭王时代的铜器如永盂和卫盉就出现了,甚至到了夷王时代,荣伯跨越了四代人,历时50年,必定达到了老人的年龄。因此,笔者的疑问是与宰兽同时的荣伯和永盂、卫簋中的荣伯是否是同一个人。如果不是同一个人,那么这名荣伯应该是继承前辈爵位的荣氏后人、在周厉王厉王时衰落,因为荣夷公已经引起国人暴动。7)
“宰”是官名。这个职位高则为百官之长,低则为家臣之长。宰兽是在这种情况下管理康宫的长官。“兽”是作工人的名字。
⑤今余唯或乃命
这在金文中常见,牧簋(今余隹乃命)、师簋(今余唯乃命)、师太簋(二)(今余隹乃命)蔡鼎、大克鼎、师克簋、师簋等铭文中所写的句子,和这句话是同一个用语。“或”可以有或有之意。“申”根据孙诒让的读法8)理解为重复的意思。“申”在“说文”中没有。“京”是高屋的意思,“享”是“音”,将其作为“声符”重复高(贵)的意思。“我现在,乃乃”“为什么这么做,我才不重视乃的生命呢?”或“现在,我不再重拯救乃”。赐命时一并排列,是包含晋级等意思的恩赐。宰兽之职,兼任其本官(从祖考开始的康宫管理者)与其之后的职务。
⑥康宫王家臣妾奠庸(外内)
“”散见于金文,但因为有很多异体,所以也没能做出一定的解释。与谏簋、师克盨、彔方彝、毛公鼎等著名器铭同属。“”字有许多考释,现在《金文编》也还有附录。徐同柏认为是“畯”,刘心源认为是“立”,吴式芬认为是“骏”,孙诒让认为是“骏”,吴宝炜认为是“恭”,丁佛言认为是“恭”,周岭生认为是平行之义。罗氏认为是兼的原字,在本务以外的其他工作的同时进行管理。“司”在这里是司治之意。“康宫”是康王的庙。罗氏把“王臣妾庸”当作“王臣妾庸”,以指代在康宫服役的王室男(臣)女(妾)的奴隶。即是附庸,《尚书》费誓篇的“臣妾逋逃失(男女奴隶逃亡的),微子篇“我罔为臣仆”等引用,另外甲骨文·金文中“臣”“妾”“仆”“庸”的语言表现了男女奴隶。
吴镇烽在该书中指出了罗氏的标点符号用法不当,认为“庸外内”应作为“奠庸外内”,9)(另外应将这四个字训读在一类中)。周原博物馆藏(A)的拓铭在右下角部分看不出,但在陕西历史博物馆藏(B) (C)的拓铭中以明显的身份祭奠,在字体上不落于字。更奠是决定的意向,庸是使用的意向,以祭奠庸作为决定、处理的意向来考证。因此,这句话是对王室内外的妥善决定和处理的意思,也就是掌管着王室内外的事务。同类的金文还有师 簋:
“余令女死(尸)我家,司我东谝西谝,仆驭、百工、牧、臣妾,东宫内外,毋敢否善。”(我命你管理我家事务,并一并管理西谝东谝的私馭、百工、牧、臣妾,使国内外向东。没有敢否定善行的。)
这些与“东内外”、“奠庸内外”的词义相近。“董理”意为董理裁决,“董裁内外”意为管理帝王所提供的一切。吴氏的词意十分明了。10)
⑦“母敢无闻知”的“闻知”,是向王室献礼并报告的意思。《正字通》中有一句“凡是人臣的事早在廷奏就闻”。与该句句式相类的除了刚才引用的师簋的末文外,还有:
“今余隹令女,死司葊宫葊人。女毋敢不善。”“现在,我命令你,尽力管理葊宫葊人,你不要敢耽误。”(卯簋)
“先王既令女、司王囿、hellip;母敢不善”(先王已经命令你管理王囿,hellip;你不要敢耽误。)(谏簋)
像这样的句式,根据白川静的说法,是在命令广范围的职务时所使用的戒赦语。11)
⑧“易(锡)女(汝)赤市、幽亢、攸勒”,是赐命的内容,赤市(周王赐予宰兽红色的祭服),幽亢(弯腰时垂下的护膝),攸勒(脖子上的玉质装饰)。这些物品在金文中是常见的。罗氏将幽亢的下两个字作“敕”,但在西周中期以后的赐命金文中,一般则是攸勒或皮革,在古典
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西周青銅器とその銘文研究
~新出土の宰獣簋を中心に~
了德寺大学芸術学部 進藤英幸
A Study on Western Zhou Bronzes and Their Inscriptions.
‐ Focusing on“ Zai Shou Gui”(宰獣簋)‐
【Keyword】 Western Zhou(西周) Zai Shou(宰獣) Rong Bo(栄伯)
【Abstract】
A Zai Shou Gui, a Western Zhou bronze vessel, was found in Shaanxi province in July 1997, and the commentary on its shape, pattern and inscription was published in WenWu 8 (1998). In this paper I would like to reexamine that early commentary, focusing on the interpretation of the inscription of twelve lines an d one hundred and twenty-nine letters.
Ⅰ はじめに
中国の西周期において芸術文化・制度などがどのように変遷し発展したかを具体的に考察しようとする場合、依拠すべき史料は現存する古文献(『史記』・『春秋左氏伝』や『詩経』・
『書経』など)の部分的記事であるとともに、出土文物とりわけ各種の青銅器とそれに鋳刻されている文様および銘文( 文面の内容と字体・書風などの変化)が最も信頼度の高い史料であることは周知の通りであろう。ところで、西周青銅器とその銘文研究については、宋代以来の先学者によって幾多の優れた業績が残されているが、近・現代になって、工芸的にも美術的にも質の高い文物が中国各地から陸続と出土されるようになった。特に西周期の王都の地域だった現在の陝西省の各地区からの出土品に注目する必要があろう。
本稿にとりあげた宰獣簋も 1997 年 7 月の下旬に、陝西省扶風県段家郷大同村において農民が掘り出したものであった。収蔵された周原博物館の研究員( 兼館長)羅西章氏は、出土地域を調査し、この簋を検討して、1998 年第 8 期の『文物』誌に「宰獣簋銘略考」と題して発表されていた。彼は同年の 7 月に、わが国の拓本研究家の伊藤滋氏と共編で『周原新出金文集粹』を刊行され 1)、その 48 器目に宰獣簋が掲載されているが、『文物』のそれとは器形の測定および銘文の考釈においても幾つかの疑問がある。以下においては、上記の二書の解説文を主に、その他の文献を参考にして「宰獣簋の器形について」、「銘文の考釈について」の二点を中心に考察したい。
Ⅱ 宰獣簋の器形について( 図 1~図 4)
この銅簋の出土した現場を視察した羅氏は、大同村附近の地域は西周中・晩期の特徴がみられる墓跡や文物が多く発現している所であり、この銅簋は 1971 年ごろに、一度この地の渠道を掘り出された時、渠底の墓のなかから出土したが、その後、一時的にこの小さな穴に埋められ、1997 年 7 月になって再度の出土となったものであろうと推測されている。
簋の高さは 37.5cm、口径は 24.5cm、側面の長さは 25.3cm、腹部の深さは 13cm。方形台座の正面の長さは 24.8cm、側面の長さは 25.3cm、高さは 12.5cm、重さは 14.4kg である。この簋には蓋( ふた) があり、小さくて高くはない、外に開いた口( 侈口) 、くびれ( 束頸) がある。角ばった口( 方唇)、唇の部分は鋭角で、腹部はひろく、中央の部分は外にふくらみ、両側に獣首形の耳があり、圏足になっている。下に方形台座があり底は平らである。蓋は中央部に筒状の把手があり、直径は 10.5cm で高さは 3.3cm である。
把手の外と口沿部には、雲雷紋で縁取り、変形の獣面紋が二周施され、その間には突き出た瓦紋がある。口沿と圏足には、雲雷紋の縁取りの獣目の交連紋が施されて、腹部には突き出た瓦紋がある。耳部は獣首双角で螺旋状になっていて、その角の部分は口よりやや高く、屈舌には重環状の鱗紋を施し、下には象の鼻状の垂珥( みみだま) がついている。
方形台座の四隅の装飾は、簋・簋などと同じ獣面紋で、四面は壷門形獣面紋になっていて、その獣面は方形台座の4 つの角( かど)が鼻となっている。主紋は高く浮きあがり、目は特に突き出ている。細かな雲紋に縁取られている。なお方形台座の内側の中央部に鈴をかける鎖状の半円のあとが残っている。
以上の解説は、羅氏が『文物』で簋形とそれに施されている装飾的文様について報告された部分を翻訳したものであるが、彼は最後にこの簋( 食物を盛る器の名称)の文様の配置や様子は、周原で出土した西周銅器の中ではとても珍しいものであるとされている。器形やその文様の有様は時代によって変化・変遷があるから、青銅器の製作年代や編年を考察する場合、重要な手がかりとなることもあるから軽視できないのである。
Ⅲ 宰獣簋の銘文考釈について( 図 5~図 8)
1 銘文の配字
この簋の銘文には、周原博物館蔵の外に、1999 年 7 月に陝西歴史博物館に収蔵された三器の宰獣簋があり、形制・紋飾ともに全く同じである。ただし、三器のうちの二簋には銘文がなく、一簋の器と蓋の内側に同じ内容の銘文が鋳込まれている。配字と字体・書風に多少の相異がみられる 2)。よって現在、三種の銘文の拓本をみることができるが、銘文を考釈する前に、三種の配字の相異を示しておくことにする。周原博物館蔵の宰獣簋の蓋銘文を A 簋(図 5) とし、陝西歴史博物館蔵の宰獣簋の器銘文を B 簋(図 7)とし、同簋の蓋銘文を C 簋(図 8)とする。以下は三種の行と字数を表わす( 表 1)。
表 1
A 簋 |
B 簋 |
C 簋 |
|
1 行目 |
10 字 |
12 字 |
14 字 |
2 行目 |
10 字 |
12 字 |
14 字 |
3 行目 |
10 字 |
12 字 |
11 字 |
4 行目 |
10 字 |
12 字 |
10 字 |
5 行目 |
10 字 |
12 字 |
10 字 |
6 行目 |
11 字 |
12 字 |
10 字 |
7 行目 |
10 字 |
12 字 |
10 字 |
8 行目 |
10 字 |
13 字 |
10 字 |
9 行目 |
13 字 |
11 字 |
10 字 |
10 行目 |
12 字 |
12 字 |
10 字 |
11 行目 |
11 字 |
9 字 |
10 字 |
12 行目 |
12 字 |
- |
10 字 |
計 |
129 字( 重文 1) |
129 字( 重文 1) |
129 字( 重文 1) |
A 簋の配字は、8 行までは毎行 10 字を配し、縦・横の行間にややゆとりが感じられる。その後の 4 行に多少の窮屈さを感じる様になっている。C 簋と共に線質に丸みと柔軟さがあって、温和な雰囲気を感じる。字体も変化に富んだ作である。
B 簋の配字は、毎行 12 字の行が多く、末行を 9 字にとどめ下部に空白の余裕を作っている。この簋の字体は A 簋・C 簋に比較して、やや直線的で長方のスタイルの字が多くなっている。例えば、うかんむりのつく室・宰・宮・家・宝など幾分かど張ったかんむりになっているのが特徴といえる。
C 簋の配字の特色は、はじめの 2 行が各 14 字になっていることである。A 簋と共に曲線が多く、画数の多寡の字体を巧みにおり混ぜた作になっている。
A 簋、B 簋、C 簋の三種の銘文において、その字形・字体は西周の中・晩期の作風で、初期の遺風は既に見られなくなっている。
2 銘文の考釈
①唯六年二月初吉甲戌
「六年」は宰獣簋の製作年代に関わる紀年である。羅氏は、器形・紋飾の変遷と銘文に登場する主要な人物の栄伯らの官職名から、西周の第 9 代目夷王の 6 年と比定されていたが、呉鎮烽は羅説に疑問を呈し、この種の器形・紋飾はすでに懿王・孝王の時期に流行したものであるとし、また栄伯が登場する数種の銅器を採用して反論し、宰獣簋の時代は懿王時期が妥当とされた 3)。また杜勇・沈長雲は羅氏の「司土の栄伯、宰獣を右( たす) け」の句解を採りあげ、栄伯の職官の変遷と関連する他銅器から論述して、この簋は共( 恭)王時代のものとされた 4)。
「初吉」は、日付の語で各月を四分し、朔日( 陰暦の月の第一日) から上弦( 陰暦で 8, 9 日ごろの月) の日までをいう。王国維の「生霸死霸考」によると、各月の 1 日から 7・8 日までとなる 5)。
②王在周師彔宮
この場合の周は、今の陝西省の扶風県と岐山県の両県にまたがる周原を指し、金文では成周
( 河南省の洛邑)と区別して周の王都宗周とも表記される。「師彔宮」は周原に建てられた著名な宮室の一つである。この宮名は、諫( かん) 簋・師 (ししん) 鼎・師兪( しゆ) 簋や近年に扶風県荘白一号西周坑から出土した盨(こうしゅ) らの銅器の銘文にも見え、周王が常にここで冊命を行ない臣下に賞賜していたところである 6)。
③王各( 格) 大室、即立( 位)
「各」は古典のなかでは、ほとんど「格」( いたる) に書かれている。「大室」は、廟の中央の室である。臣下に命ずるには祖先の廟でおこなった。「立」は、「位置」の位で、立つ場所の意である。
④ ( 司) 土栄伯右宰獣
「( 司) 土」は、司土また司徒とも称し、西周金文では常に見える語で、王室の職務の最高の執政大臣の 1 人であり、国の土地と人民を管理統轄し、籍田( 天子直属の耕田) を治め、徒役を徴発する責務に当っていた。司土の官職名は周初の康侯簋にもみえ、かなりふるくからあり、「免簠( めんほ)」の銘文には( 免に命じて司土となし、鄭還の林と呉( 虞) と牧とを司らしむ。→ 土・田・林・牧を管理する官職が命じられた意) とあり、「簋( さいき)」の銘では( よ、汝に命じて司土となし、籍田を官司せしむ) とある。籍田を掌るものとしてみえている例で、相当の重職であったと思われる。なお『国語』周語に記す籍田の礼では、司土は重要な儀礼の執行者になっている。1976 年に周原荘白一号窖蔵から出土した「十三年壺」の銘文にも( 王、成周の司土の淲〈人名、こ〉の宮に在り) とある。「揚簋」は司徒に作っている。
「栄伯」の人名は、康鼎・卯簋・同簋・敔簋・輔師簋・師詢簋・弭伯簋・応侯見工鐘・永盂・衛簋といった諸器に見える。「右」は口添えする意で、誘導することである。右者としての栄伯は宰獣簋のほか康鼎・同簋・輔師簋・弭伯簋・応侯見工鐘などにみえ、卯簋には家臣への冊命者として、敔簋には献捷( 戦勝帰還して、捕虜を献じて戦勝を廟に奉告する)の場所として栄伯の所がえらばれており、当時ならびなき権勢の家であったろうと思われる。羅氏は、諸器の銘文に登場する栄伯について次のように解説されていた。
栄伯の名は、早く恭王時代の銅器、永盂や衛盉に見られ、夷王時代に至るまでとなると、栄伯は四代の 50 年余りにわたることになり相当の高齢になる。そこで筆者は、宰獣簋中の栄伯と永盂・衛盉中の栄伯とは同一人物か疑問である。もし同一人物でなければ、此の栄伯は先輩の爵位を踏襲した栄氏の後代
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